歴代地区ガバナー

岡山ライオンズクラブは、原勝巳、根岸博、原悦次、大岸満正、植本辰雄、大谷博の6名の地区ガバナーを擁立し、地区発展に大きく貢献してきました。

原勝巳

岡山ライオンズクラブの初代会長。1957年~58年の302地区ガバナー。
日本で5人目のガバナー。もちろん日本が一つの地区の時代で、初期の日本ライオンズクラブを軌道に乗せた人です。
サンフランシスコml のガバナー・エレクトスクールに出席した後、シカゴの国際本部にメルビン・ジョンズを訪ね、当時50クラブだった日本のクラブ数を100にしたら、国際本部に日本人の役職を置く、そしてライオン誌日本語版の発行を認めるとの約束を取り付け、それを実現させた方です。
1958年7月ライオン誌日本語版発行に当っては、初代編集長に岡山ライオンズクラブ初代幹事の豊田次助さんが就任しています。 その後1981年、村上薫国際会長が岡山を公式訪問された催、『私は、原 勝巳教祖の教えを受けて今日(こんにち)を迎えた。岡山はライオンズのメッカである』と述べたことは有名であります。

根岸博

岡山ライオンズクラブ3代目会長。
1962年~63年の302ーW2地区ガバナー。
302-W2地区は中国、四国9県で構成されていました。
地区ガバナー当時、イタリア、フランスなどとの友好親善に努められました。地区ガバナーの任期を終わってからは、新クラブ結成に意欲をみせ、新クラブが誕生すると自から、指導のため岡山旭、岡山操山、岡山京山、の各クラブに転籍を続けられ、生涯ライオニズムの浸透に尽くされたことで有名です。

原悦次

岡山ライオンズクラブ12代目会長。
現在の336-B地区が発足した初年度の1976年~77年の地区ガバナー。
根岸 博地区ガバナーのキャビネット幹事を務められ、地区運営に精通されていました。また、日本の複合地区会則の作成並びにライオンズ必携発刊の準備にたずさわり、会則通としても有名でした。
また、絶えず後継者の育成に意を注がれ、進んでクラブから地区役員を出すべきだという気風を醸成してこられました。

大岸満正

岡山ライオンズクラブ25代目会長。
1985年~86年の336-B地区ガバナーで、336複合地区ガバナー協議会議長。
原 悦次地区ガバナーのキャビネット幹事を務められただけに、豊富なライオンズ知識と地区運営のセオリーを身につけておられ、地区とクラブとの連繋に意を用いられました。
「楽しく、力強く奉仕をひろげよう」のスローガンを掲げ、楽しい奉仕のあり方を力説してこられました。
地区ガバナーを終えて僅か2年余りで他界されたことは、惜みても余りあるものがあります。

植本辰雄

岡山ライオンズクラブ27代目会長。
1993年~94年の336-B地区ガバナーで、336複合地区ガバナー協議会議長。
大岸満正地区ガバナーのキャビネット幹事を務められたが、そのさい原 悦次元地区ガバナーから「幹事は会則の鬼になれ」と教えられ、現在でも会則通として全国的に有名です。
地区ガバナー在任中は、キャンペーン、サイトファーストの最終年度に当るためL.C.I.Fの募金に努め地区目標の2倍を達成、国際会長表彰を受けられました。
また、『変化を先取りし、未来ビジョンを確立しよう」の地区ガバナーアクティビティスローガンを掲げ、未来ビジョンの重要性を地区に定着させました。

大谷博

岡山ライオンズクラブ第51代会長
2016年~17年度 336-B地区ガバナー
2017年~18年度 336複合地区ガバナー協議会議長

入会以来「みんなでライオンズを楽しみましょう!!」の基本姿勢の下、ライオンズクラブ創立100周年の節目に地区ガバナー、翌年に複合地区ガバナー協議会議長を務め、卓越したリーダーシップを発揮、時代に寄り添った地区運営、地区改革を行いました。 特に将来を見据え、「日本一元気のある336-B地区にしよう!!」の旗を掲げ、若手会員・女性会員に活躍の場を提供、その育成に尽力しました。 また、会則に精通し、基本に忠実かつ柔軟な発想で地区の活性化に努めました。